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この時はワルシャワから空路で入ったが九月後半と思えない寒さにビビり、ナイトゲ-ムな向けて防寒着を買った。通貨が€なのでズウォティよりも割高に感じたが、背に腹は変えられない。それほど寒くても腹にビ-ルを流し込んでいたのだが。
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リトアニア人は なぜかスロベニアにいる
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再び明日ユーロが開幕するバスケットボ-ルの話題に。世界ランク九位ラトビア、十位リトアニアとバルト三国が続いたが惜しくもベストテン入りを逃したが、その次は強豪旧ユーゴの流れを組むスロベニア。不思議なことに欧州を広く旅しても出逢う機会が滅多にないと書いたが、今春NKオリンピア所属のユスタス·ラシクカス:Justas Lasickas【1997年10月6日生】をリュブリャナで撮影。前述のフェロ-諸島戦では右サイドハ-フでこの日は最終ラインに。
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スリヴカ同様にこの選手も複数のポジションをこなせるユーティリティーが売り。ユヴェントスのユース出身のスリヴカが初めてトップリ-グデビュ-したのもNDゴリツァだったはず。ノヴァ·ゴリツァは、スロベニアの西端でイタリアとの国境に接した都市である。そして昨季のUEFAカンファレンス·リ-グではベストエイトまで勝ち進んでフィオレンティ-ナの前に力尽きたNKツェリェ。今週はプレーオフ第二戦でチェコ東部のFCバニーク·オストラヴァとの本選を賭けた重要な試合が目前に。昨季こと大会で快進撃の立役者となったのが七試合で6G1Aを記録した若きエ-ス、アルマンダス·クーシース:Armandas Kucys【2003年2月27日】。ところがヴィオラとの試合を前に十字靱帯断裂の重傷で戦線離脱。クラブは言うまでもなく代表を応援するスロベニア全国のファンが早期復帰して、その笑顔が見れる日を心待ちにしている。
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IMのロゴを入れなかったリトアニア代表のユニフォーム
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’92年のバルセロナ五輪参加を決めても資金に苦しむ貧国に手を差し伸べたのが日本の企業だった。三宅一生:Issey Miyake【1938年4月22日生-2022年8月5日没】。東レの素材をミズノが縫製した素晴らしいユニフォームが無償で贈られた。1992年6月リトアニア五輪ユニフォームは日本外国特派員協会が世界に発信し賞賛された。日本製を着てリトアニア男子バスケチ-ムが銅メダルを掴んだ試合の対戦国はロシアをはじめとする旧ソ連邦の国家連合だった。
なるほど、Y-3のユニフォームの違和感の正体は判明した。クラブのようにスポンサ-企業の宣伝媒体ではなく、純粋に国家国民を代表するチームのユニフォームでありながらY-3はブランドメーカーの企業色が出過ぎているのだろう。つまりJAPANのJやNIPPONのN以外のアルファベットを用いるべきではなかったのである。ユ-ゴスラビアのユニフォームたったら良かったのに。ちなみに筆者のイニシャルは山本耀司先生と同じくY.YではあるからYが嫌いなわけではない。〖第五十七話了〗
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