欧州蹴球文化探訪 ベルギーの光と闇 第九話 ルク・ニリスの閃光

その後の際・ファン・ウェルメスケルケン

 2009年アイントホーフェンからローマへの航空券。以前紹介したライアンエアをかつて空飛ぶバスと呼んでいたのは筆者だけではないはず。
チケットに座席番号はない。現在はチェックイン時座席指定されるが当時は自由席。アヤクシートの筆者にとっては他ならぬ敵地ではあるがこの路線を利用しない手はない。

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 アイントホーフェンの人口は20万人強。これは首都アムステルダムおよそ75万、港湾都市ロッテルダム60万、行政を司るハーグ50万、そしてユトレヒト30万人に次ぐ5位にランクされるが、周辺の自治体を含めても都市圏の人口は70万人。アムステルダムまで列車で一時間半かかるのに対して、ベルギー第二の都市、アントワープまでは90キロなので車を飛ばせば一時間の距離。大手エレクトロニクスメーカー、フィリップス社の創業は1891年。オランダサッカー協会はその二年前に設立され、六年後に国内リーグが幕を開ける。

 ジュピラーリーグ第15節。11月27日アイントホーフェンのデ・ハードハング。観客席のキャパシティは2500人だがこの日の入りは750人程度。

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 前節スタメンを外れた際・ファン・ウェルメスケルケンは73分ピッチに投入されると3分後左サイドからのクロスを右足ダイレクトでゴールに突き刺した。今季オランダのプロリーグではADOのマイクハーフナーに続く日本人二人目のゴール。現在オランダにはプロ選手が二人しかいない寂しさを実感する。相手のヨングPSVのディフェンシブハーフには18歳のベルギー人、フィリップ・ロメンス(1997年8月生まれ)が出場。UEFAユースリーグのマンチェスターU戦ではセンターバック、CSKAモスクワ戦ではキャプテンマークを巻いて中盤の低い位置からチームを鼓舞した。

 第14節ヨングPSVは同じくUEFAユースリーグ組を含めたヨングアヤックスと対戦。この日は二歳年上の兄オリフィエ・ロメンス(1995年2月生まれ)が出場している。ベルギーUー17代表ダンテ・リゴ(1998年12月)とPSVテクニカル・ディレクターのマルセル・ブランズが記者会見に臨んだのは今春。現在PSVのベルギー人は三人に増えた。

フンソ・オジョの美技

 ドルトレヒトで手にしたのは10月26日付AD紙。
ドルトレヒトとヨングPSVなら日本では馴染みが薄いかもしれないが、一度は代表に招集してほしいフンソ・オジョの名前が頭に浮かぶ。

 1991年アントワープ出身。地元のベールショットから2004年にPSVアイントホーフェンへ。
デ・ハードハングが当時韓国代表と兼任していたフース・ヒディング監督の意見も参考にして前年(2003年)年四月に完成したばかり。都心部の喧騒から離れ、森林に囲まれた練習施設。スカウティングと医療職員、そして青少年育成施設も併せてリニューアルされオジョが越境を決断する決め手となった。

 2008年にエールディビジデビュー後一度は母国に戻るが、13-14シーズン途中でロイヤルアントワープからFCドルトレヒトに移籍する。ベルギーの二部からオランダの二部へ。しかしドルトレヒトは、残留を賭けたプレーオフ三回戦でVVVに連勝。一部17位のNECナイメヘンを撃破したスパルタロッテルダムと一部昇格を争う。2014年5月15,18日の連戦。初戦2-2のドロー、そしてホームでドルトレヒトは  ぶりの昇格を決めた。二試合を通して抜群のパフォーマンスを披露したオジョにフットボール誌は、初戦7.5第2戦は8の評価を与えており、フンソ・オジョの名前は・・・紛争悪除と日本語に変換して頭に記録された。