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欧州蹴球文化探訪 ベルギーの光と闇 第六話 W.ベフェレンの生きる道(後編)

 本拠地フレシエル・スタディオンの収容人員は13000人弱。

 ベフェレンの人口は二万人、メルセレ一万人、ハースドンクは五千人にも満たないのだから併せてもロケレンの四万人に劣る。ワースランド地域最大の都市シントニクラースの人口は7万3000人。その西側にロケレン、東側にベーフェレンが位置する。

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【フレシエル・スタディオン】

 ウィンターブレーク前の12月26日。フレシエル・スタディオンにそのロケレンを迎えての年内最終戦。観衆は7300人。前半2-0とリードしたホームチームは後半3点を奪われ悪夢の逆転負け。

 この日のスタメンの平均年齢は23歳。リオ五輪世代が7人。若いチームは崩れたゲームプランを修正する力に乏しく、既に遅かりし時間帯に見覚えのあるスキンヘッド、マリッチ33歳がピッチに登場した。

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[ロケレンとのダービー。写真は2012-13シーズン】

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 2001年200万ユーロの赤字を抱え経営難に陥るKSKベフェレン。そこへ某企業から100万£(2億1400万円)融資の申し出があった。後にアーセナルが提供した資金であることが判明する。
 ジャンーマルク・ギユー就任以前 -2001シーズンまでのベフェレンのトップチームに登録された25人中ベルギー人は15人。外国籍選手は南米3名(ブラジル2ウルグアイ1)。移民を受け入れてきたトルコ2モロッコ1、欧州からはチェコ1オランダ1。
 残り1名はリ・サン・イル。(1979年生まれ)大学卒業後Kリーグには見向きもせず欧州に渡り2000年にデビューした韓国人は異色ではあるが、比較的ありふれた割合といえる。
 2001-02年18歳のヤヤ・トゥーレを含むミモザから5人の選手が移籍する。ASECミモザとのベフェレンの契約では移籍金は発生しない。その変わり欧州のビッククラブへ売却された場合30%がミモザの取り分となる。ベフェレンは選手の育成、欧州各クラブスカウトが品定めする場を提供しEU圏内でプレーする免罪符(国籍を取得)を発行する窓口となった。

 ミモザのロジェ・ウーニャン会長はかねてからベフェレンとの契約に納得しておらず両者の溝は深まる一方。ギューがコートジボワール2部のクラブ・トゥモデの下にベンゲル個人やアーセナルとの共同出資でAcadémie Jean-Marc Guillou(通称 J.M.Gアカデミー)を2002年に創立すると関係は決裂。

 02-03シーズンには新たに5人の選手がベフェレンに加入。同時にアーセナルから四人の選手も受け入れている。翌03-04シーズン更に六人+アーセナルからコートジボアールと英の二重国籍者一名追加。あおりを食ってベルギー人の選手減少は止まらない。
2002年9月にはコートジボアールで南北の対立が表面化、第一次内戦=北イスラム南キリスト教の宗教戦争)はフランス軍介入で沈静化した。コートジボアールの少年達は、夢の別世界を頭の中で思い浮かべ、粗悪なグラウンドでボールを蹴る日々。

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 2004年5月23日ブリュッセルのボードウアン国王競技場。。

 カップ戦ファイナルとなるクラブ・ブルージュとKSKベフェレンの試合は同国のフットボール史でも極めて稀な珍事が起こり、4万人の大観衆が歴史の証人になる可能性を含んでいた。

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