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欧州蹴球文化探訪 ベルギーの光と闇 第十一話 アペルドールンに交差するフットボール人生

 2010年FIFAワールドカップ南アフリカ大会終了後、日本代表の守護神、川島永嗣の移籍によってアントワープ近郊の小都市のクラブの名前が知られ、それまで見向きもしなかった旅行者や現地在住の邦人がスタジアムを訪れる回数は間違いなく増えた。

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 川島がスタンダール・リエージュへ移籍した後のリールセに注目するヘソ曲りは自分ぐらいかもしれない。

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 アヤックスの守護神スタンリー・メンゾは、1983年から11年間アヤックスに在籍。ヨハン・クライフの眼に叶ったものの、ルイス・ファンハールに抜擢されたエドウィン・ファン・デルサールの時代を迎えるとライバルPSVに自身の居場所を見出した。2シーズンをアイントホーフェンで過ごした後、メンゾ―は西側の国境を越える。1996年から2シーズンはベルギーのリールセに所属した後、99-2000シーズン古巣アヤックスへと戻り、2003年AGOVV アぺルドールンにて現役生活に終止符を記した。

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 そのメンゾは2010年からフィテッセ・アーネムでアシスタントコーチをしており、アヤックス時代の同僚だったファン・デン・ブロムが監督に就任すると彼を補佐する役回り。そのファン・デン・ブロムがジュピラー・プロの盟主RSCアンデルレヒトの指揮官に。当時オランダのフットボールメディアは、PSVとトウェンテでプレーするベルギー人の教え子二人にコメントを求めている。記事を読むまでもなく彼らは恩師の成功を確信していた。ブロムの後を追うようにメンゾもベルギーに。2013年から古巣ールセSKの指揮を執る。メンゾは何とか一部残留させアムステルダムに戻るが、翌季は持ち堪えられずにリールセは降格してしまった。

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 クライフがアヤックスの理事会の席上で発した「この席にいられるのは黒人だから」とダービッツへの一言を差別と受け取る輩もいたが、現役晩年既にチームメイトだったライカールトは別にして、アーロン・ヴィンターとこのスタンリー・メンゾは間違いなくクライフが育てた黒人選手である。オランダのフットボールにおいてゴールキーパーに足元の技術が求められる時代のパイオニア的存在。

 昨年のドルトレヒトーデンボス戦の考察に補足してオランダフットボールの変遷史を別稿にて取り上げた。アヤックスの育成では小学生年代から【4人のボールまわしを囲まれた中の2人がカットする】鳥カゴを徹底して反復する。ボール保持者を、(二人ではなく)三人がサポートするポジショニングと対角線へのパスを狙う意識づけが目的。
 

 リヌス・ミケルスの練習では4対4のミニゲームに時間を割いたが、彼の発案したポセッションの概念は、クライフとファン・ハールによって具現化された。この鳥カゴもミケルス《70年代)以前から行われていたはずだが、ポゼッション100%を理想に掲げたクライフは圧倒的な精度は求めた。クライフはボールを繋ぐイメージトレーニングとして手でパスを繋ぐハンドボール形式の練習を取り入れた。近年アヤックスがフットボール以外のスポーツから指導者やトレーニングメソッドを活用しているのもクライフの意向によるもの。