憂いを帯びた横顔を絶妙な加減で陽光が照らすベルギーサポーター女性のワンショット。
ベルギーの光と闇を主題とするコラムも十話目。前半終了ハーフタイムに入る所であらためてベルギー多国籍化の歴史とジュピラー・プロリーグの御復習いをしておく。
ローマ帝国の衰退から北部をゲルマンが侵攻。1830年にネーデルランド王国の領地として虐げられたワロン人が発起。反乱による独立を勝ち取ると、アフリカ支配へ乗り出しコンゴでの強制労働が小国に利益を齎したのが19世紀後半。
第二次大戦時、南部ワロン地域は炭鉱労働力の不足を補うため、トルコ、モロッコの地中海沿岸イスラム圏、イタリアやドイツ人捕虜も駆り出された。一時人手不足のための施策と思われたがこの出稼ぎ移民はコミュニティをつくり永住する。
次に植民地のコンゴや保護領ルアンダ・ウルンジ等のアフリカ組が波のように押し寄せる。米国を後ろ盾とするモブツ・セセ・セコによるクーデター勃発から独裁政権の誕生。コンゴは1971年にザイール共和国と名前を改める。
ロジェ―ル・メナマ・ルカクは1967年コンゴの首都キンシャサに生まれた。彼がベルギーへと移住して二部のブームでプレーをしたのは、民主化の機運が高まる90年当時。しかしザイール大統領モブツは権力の座から降りるつもりはない。メケレンやオーステンデなどベルギー一部リーグでもプレーをしたロジェールは、“ザイール代表”チームの一員としてW杯米国大会の予選に出場した。長男ロメルがアントワープで生まれたのはその1993年。次男ヨルダンも翌年生まれている。
ロジェ―ルはその後もアフリカネーションズカップ(1996年開催)等、国際試合で活躍。
1994年ルワンダとブルンジ両国大統領の搭乗機がミサイルで撃墜され大虐殺への悪夢。この民族抗争の根幹は1920年代からの宗主国ベルギーによる同系民族の分類差別。憎悪の火種はベルギー人である。
1996年、政府軍の東部派遣に対して、武装したコンゴ・ザイール解放民主勢力連合が反撃。ルワンダ、ブルンジ、ウガンダ各国もこれを支援した。
フットボールシーンでは各国代表チームがフランス大会の出場を目指す1997年。アンゴラも加担して第一次コンゴ戦争は開放連合の勝利。5月に首都キンシャサを制圧した国名はコンゴ民主共和国へと改称される。
ボスマン判決の影響を受け90年代後半から衰退するベルギー国内リーグ。ドイツ・ワールドカップ予選での敗退で協会はリーグの構造改造に取り組み各クラブに育成部門の強化を促す。07年にスタンダールのアカデミーについては第三話でふれたが、07-08シーズン、そのリエージュが四半世紀ぶりとなる国内優勝を決めたのは喜ばしい出来事。炭鉱鉄鋼業が衰退したワロンと北側フンデレンの経済格差がフットボールにも影響を及ぼし、それまでアンデルレヒトとクラブ・ブルージュ等、オランダ語圏のクラブがタイトルを独占するマンネリ化が懸念されていたのだから。