紀行文:ドルトレヒトの新星が五輪代表の救世主となるポテンシャリティ 最終話

 1974年ワールドカップでのヨハン・クライフの躍動。メディアはトータルフットボールの固有名詞を用いて<近代史>の幕開けを活字に報じてきた。それは日本サッカーが72年ミュンヘン五輪から六大会連続予選敗退=暗黒の時代へと足を踏み入れて間もない出来事。プロリーグ化に漕ぎ着けた日本は、96年アトランタ大会から世界の舞台へと復帰を果たす。その前年ファン・ハールは進化の完成形ともいえるチームをビッグイヤー獲得により世に知らしめた。

日本国内でもオランダの現在進行形を模索するクラブが登場。先頃一部復帰を決めたジュビロ磐田である事を第1回からのべてきた。ハンス・オフトは、95年シーズン終了時翌年の3トップ(3-4-3)フォーメーションへの意欲をほのめかしたが実現せず上位3位以内の目標も未達成に終わる。

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11月3日A代表はイランとの親善試合。ハリルジャパンで南野拓実に代表初キャップが刻まれた。しかし時間は僅か5分。彼がオーストリアのザルツブルグに旅立ち間もなく一年を迎える。

2014-15シーズン最終節はオーストリア版ナショナルダービーのアウストリア戦。既にレッドブル・ザルツブルグは、優勝を決めていたが、ホームのアウストリアにも意地がある。何より数日後に控えたカップ戦のファイナリスト両クラブの直接対決となればモチベーションも高い。

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 ザルツブルグはツートップ、フォーメーション図ではスタメン右サイドのように記される南野だが、左右ポジションチェンジを繰り返し中での仕事も多い。
左サイドから相手ゴールに迫る写真が多くここでは二枚をチョイスした。

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日本でプレーしている頃から、ドリブル パス、シュート、攻撃面では万能と評価を得ていたようだが、前年まで指揮したロジャー・シュミットの戦術が色濃く残るこのチームでは運動量が求められ、事実深い位置まで守備に奔走していた。繊細なタッチと小刻みなステップで華麗に相手を抜き去るフィールドの貴公子をイメージしていたが、実際目の当たりにしたのは汗をかき泥臭くゴールを狙う一面だった。