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紀行文:ドルトレヒトの新星が五輪代表の救世主となるポテンシャリティ 第一話/全六話)

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序文 モスクワにて

 1980年モスクワ五輪から大凡半世紀を経て開催されるFIFAワールドカップは、モスクワ市民待望の“スポーツの祭典”。本田圭佑がミラノへ去った後も孤軍奮闘する若者は間もなく凍える季節を迎える。11月21日ディヴィジョン1(ロシア2部)22節 アウェーでスパルタク・モスクワⅡはFCヴォルガル・アストラハンに敗れこそしたが、唯一のセカンドチームが20チームで争うなか7位とは健闘を称えるべき。出番こそ無かったものの、この日久しぶりにベンチに腰を降ろし篠塚一平(1995年3月生)は戦況を見つめた。

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【空港内モニターにはモスクワ勢を凌駕したゼニトの元Jリーガー映像とロシア語の文字】

本年は第二次大戦終焉から70年。戦勝国ロシアのシェルメチボ空港に降り立ち祝賀ムードを感じたのは今春。70年でこの盛り上がりならば終戦から半世紀の節目を迎えた1995年のボルテージは容易に想像できる。

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 ゴルバチョフ政権がペレストロイカを推し進める時代に訪問したモスクワは、生まれて初めて足を踏み入れた欧州の都市。アルバイトで連日麻布の領事館へと通った三十年前から変らず未だに短期滞在でも観光査証が必要なのだから近いようで遠い稀有な国。

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阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件の天災人災大惨事が相次ぎ、マイクロソフト社からのWindows95発売がもたらしたIT元年。ネット株取引解禁など経済や文化、社会全体が大きな転換期を迎えていたのが今振り返ると1995年。
 フットボールも欧州南米以外では初の開催となったワールドカップ米国大会が閉幕直後の94-95シーズン。欧州蹴球シーンの頂点に君臨するロッソネロに唯一対抗し得るクライフ・バルサが崩壊する中、彗星が如くAFCアヤックスは時代の表舞台に躍り出た。ボスマン勝訴の裁定によりフットボールはスポーツからマネーゲームかと見紛う変貌を遂げプレーヤーの大移動を誘発のもこの年、勢力図は一変した。

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【アヤックスの本拠地アムステルダム・アレナ内のレストラン。壁にはビッグイヤーを掲げるライカールトの写真】

1995年の転機

 一方国内に目を向けると、前日本代表監督ハンス・オフトがヤマハFCジュビロ磐田を指揮している。カップ戦のファイナリスト、セカンドステージの勝率五割で94年のシーズンを終えた。昇格クラブの数字としては上出来。但し基本戦術の浸透さえ疑問視されるゲーム内容が続く。ジェラルド・ファネンブルグのパスとサルバートレ・スキラッチの決定力に依存せざるを得ない”堅守からカウンター“の現実と、理想に掲げるオランダ流の乖離は覆い難い。

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【1890-90シーズンのFCユトレヒト集合写真】©ANP

ハンス・オフトはマツダから日本代表を指揮する間、母国でユトレヒトのディレクターに。中央スーツ姿がハンス・オフト。右隣のロブ・アルフレンは91年アヤックスに移籍するが鳴かず飛ばず。昨季FCユトレヒトの監督を務めたが途中解任されている。

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【カタール ドーハ空港】