ぷら~り欧州蹴球場百景【55】ゼネラリ・アレナ / プラハ

プラハ国際空港から早朝便でロンドンに発つ。深夜空港に入り、アルコールを注入して搭乗口を開くのを待つ。ブラニックは、チェコでもポピュラーな銘柄。初めてプラハを訪問した際、ドレスデンから列車でポドババ駅に到着すると日が暮れていた。市内中心部から外れた宿を手配したのは若気の至り・・・といえるほど若くはない。


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街灯のない暗闇を歩く怖さは都会暮らしに慣れてしまうと結構きつい。辿り着いてまずは喉を潤したのが、このブラニック。結局一時間近く駅周辺を歩き回った後だけに美味さは二倍増し。

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第55景はチェコプラハのゼネラリ・アレナ。大手保険会社がネーミングライツを取得しているが、かつては日本の自動車メーカーが冠に。ヴァルタヴァ川の西岸にあるレテンスケー公園。この周辺レトナ地区はスポーツ施設が目白押し。

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空港では同国を代表する自動車メーカー、シュコダSUKODAのラリーカーが展示されていた。19世紀に創業されているが軍事製品を輸出して成長したイメージが強い。ディスプレーにはモーター・スポーツ以外では自転車とアイスホッケーの支援が表示されているがフットボールは見当たらない。それでも前日アレナで観たアウェーチームの胸にそのエンブレムを確認したばかり。

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チェコのフットボールの文献を初めて熟読したのはスポーツ・グラフィック「Number」の498号だった。「不敗神話の国・探訪記」チェコ共和国眠れる獅子」の見出しで、橘昇氏のテキスト。写真はカイ・K・サワベ氏が撮影し5頁のボリューム。今読み返すとより興味深い内容ではあるが、印象に残っていたのはキャプションに「19歳のMFロシツキ(中)は代表入りした」とだけ記され当時スパルタに所属していた、ロシツキーの笑顔だった。

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それから四年、トーマス・ロシツキーのインタビューに頁をめくる手がとまった。ワールドサッカーダイジェスト誌でジーコ率いる日本代表が東欧に遠征、大戦直後にVladimir NOVAK氏のインタビューによる記事。勝者日本で印象に残った選手として三都主、小野、稲本、そして得点者の久保を称えている。

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正確な日時は2004年4月28日。
トヨタアレナ。ワールドサッカー・グラフィック誌で小寺かずみ氏が執筆した「今だからこそ求められる資質~失われたポリシーと浪費した二年間の代償は~」は二年後ドイツ大会での惨敗を予見していた。


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古い雑誌を本棚から引っ張り出したのは、先日開幕したUEFAネイションズリーグの影響かもしれない。
47景でふれたとおり、今後日本代表が親善試合で欧州勢とのマッチメイクを組むのは極めて難しくなった。一昨日森保ジャパンの初陣が、コスタリカ代表、続いてパナマ、ウルグアイまでは決まったが、11月の相手は未だ未定。格上のスパーリングパートナーは南米勢だけに限定されるのは厳しい状況ではあるのだが、絶望する必要もない。クラブレベルでは外国人枠の問題など欧州で日本人がプレーする環境は向上しているのだから。


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2017年12月3日HETリガ第16節ゼネラリ・アレナ。あず紗さんが手にしたカバー写真は同日のマッチデー・プログラム。
ヴァルタヴァ川を26号線のトラムで越えると右斜め、目の前線路沿いにスタジアムが現れた。師走のプラハ、その寒さを証明する写真、屋根にオレンジ色の列を成しているのは暖房機器。


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2000年当時16チームで派遣を争うチェコリーグで圧倒的な強さを発揮するACスパルタプラハを指揮していたのは、サンフレチェやジェフでプレーした経験を持つ元Jリーガー、イワン・ハシェックだった。ヴィクトリア・ピルゼンが首都の強豪を退け頂点に君臨するのが現在。
それでもこの日のスパルタは前半怒涛のゴールラッシュ。


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そしてピッチには背番号10のレジェンドが登場する。三週間後に電撃引退宣言をしたロシツキー。その雄姿をSDカードに収められるのは、これが最後であることは明白だからこそロンドン行きの便を極限まで遅らせてでも足を運ぶ価値があった。


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試合終了後スタンドのサポーターに笑顔で応えたロシツキーの写真で締め括る。ケガに悩まされ続けたフットボール人生だったが、若々しく清々しいその表情は18年前のNumber誌面と差ほど変わっていない。【五十五景了】

文/撮影:横澤悦孝 モデル:森川あづ紗