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名波浩のサッカー観を読み解く【日本代表編】

 昨年9月、僕の大好きだったサッカー選手がJリーグの監督に初就任しました。現役時代は日本代表の10番としてプレーし、ジュビロ磐田のレジェンドでもある名波浩氏。名波新監督の就任時点で、全22チームで構成されているJ2リーグは第33節を終了し、新監督に託されたリーグ戦は残り9試合のみ。それでも、ジュビロサポーターだけでなく、多くのサッカーファンが、この新米監督のサッカーに注目したはず・・・でした。

 ただし、誰もが望んだレジェンドの監督就任後、9戦して僅か2勝5分2敗。最終順位もJ1自動昇格の2位・松本山雅から勝点で16という大きな差をつけられて4位へ後退。J1昇格プレーオフでは試合終了間際に攻撃参加したモンテディオ山形の元日本代表GK山岸範宏の劇的なヘディングシュートによる決勝点を決められて準決勝敗退。山形と山岸の“山の神伝説”の引き立て役にしかなる事ができませんでした。さらにシーズンオフには大黒柱のFW前田遼一がFC東京へ移籍するなど主力選手の大量流出までが待っていました。

 そんな絶望的なシーズンでしたが、J2からリスタートするからこそ、「名波さんのサッカーを浸透させやすい」土壌も揃ったとも言える部分はあると思います。そんな監督として初めてプレシーズンから指揮を執る事ができる名波さんのサッカー観を説きたいと思っておりましたので、このたび書き下ろしたいと思います。名波さんの現役時代のプレーを振り返りながら、名波さんのサッカー観を読み解いて行きたいと思います。

 今回はその第2弾となる【日本代表編】です。お楽しみ下さい。

≪参照≫

第1弾【ジュビロ磐田編】

名波浩のサッカー観を読み解く【ジュビロ磐田編】


技巧派レフティで語られる最初の名手 代表で新たなプレースタイル確立

 大卒新人ながら日本代表へ招集された名波さんはデビュー戦となったコスタリカ代表との親善試合でいきなり初ゴールを記録するなどデビューから2戦連続得点で一気に代表に定着。当時は左利きの選手が少なかった事もあって重用された事もありますが、今思えば初めて“レフティ(左利き)”として語られた日本代表選手だったと思います。「世界へ届け!名波の左足」なんてキャッチコピーはどのテレビ局でも使われていましたが、名波さん以前の選手に”左”で語られる選手はいなかったと思います。

 そんな“左の名波”は日本代表でチームはベスト8敗退に終わったものの、大卒2年目の1996年に行われたアジアカップではすでに10番を背負って大会ベストイレブンを受賞。ジュビロ磐田でも同年にはナビスコカップのニューヒーロー賞&Jリーグベストイレブンを受賞しており、順風満帆なキャリアを歩んでいましたが、この頃から少しずつプレースタイルに変化がありました。

 キッカケはブラジル代表を倒すなど、オリンピックという大舞台で2勝を挙げたアトランタ世代に名波さんと同じ2列目の攻撃的MFがフル代表でも即戦力となり得る若手選手が多く台頭して来たこと。特にオリンピックも28年ぶりの出場であったり、当時はまだW杯に出場した事もなかった日本サッカー界では、アトランタ世代の実力はもちろん、その国際経験が重宝されました。

 代表デビューから2戦連続得点でも明らかなように、当時の名波さんは2列目の選手として攻撃のアクセントとなる選手で、繊細な技術やパスセンスを攻撃に特化していた選手でした。しかし、この“アトランタ世代待ち”のシステムを構築するにあたり、加茂監督と、のちに監督へ昇格することになる岡田武史コーチからボランチへポジションを下げるコンバートを打診されます。いや、打診というよりも強制的に。

 前述の1996年のアジアカップでも世論が強く求めていたアトランタ世代の主将MF前園真聖が先発メンバーとして起用されていました。しかし、その前園はスタミナ不足とドリブラーとしての強引さが当時の加茂周日本代表監督の提唱する高い位置からのプレスで中盤でボールを奪う事を目指す高度な戦術=ゾーンプレスには相性が全く合わず、この大会を機に代表からは外れていきました。

 その前園と入れ替わる形で日本代表へ招集されたのが、のちにイタリアで大活躍するMF中田英寿(以下、ヒデ)。当時はカップラーメン『日清ラ王』のCMでも盟友・“前園のおまけ”のようなサポート役的存在で、サッカー漫画『キャプテン翼』で例えれば、当時のヒデは完全に岬くんでした。それが名波さんとの出会いにより、ヒデが翼くんになり、名波さんが岬くんになっていく過程に置いて、日本代表はW杯初出場を果たすという大きな進化と、名波さんの重要性も増していく事になるのです。そして、自他共に表現する”2.5列目”という名波さんのポジションや役割、プレースタイルが自然と見つかっていくのです。

「ヒデを活かせるのはオレしかいない」

 山口ー名波ー中田の”奇跡のトライアングル”

 もちろん、もともとは攻撃的MFとして最終局面で得点に絡む“花型”のポジションでプレーしていた名波さんにとっては、年下の前園やヒデに譲る事はけっして気持ちの良いものではなかったはず。それでも名波さんはヒデの実力を瞬時に認めて自らのコンバートを積極的に受け入れました。そして、その覚悟は、黒子として活きるというよりも、「ヒデを活かせるのはオレだけ」という言葉からもヒシヒシと感じられました。日本代表のチームとしても、「攻撃の起点を増やしたい」という成長段階に入っていたこともあり、名波さんのボランチコンバートは試行錯誤もありながらもポジティヴに作用し、中盤の構成力向上と攻撃のバリエーションアップなどといった1段階上のサッカーへと押し上げることに繋がりました。