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サッカーとの思い出④ 〜「浪速の黒豹」エムボマの衝撃、華やかに見えたフランスW杯

 Jリーグもオフシーズンになりましたので、少し僕のサッカーとの出会いや関わるキッカケになった事を交えながらサッカーを語らせてもらいたいと思います。
 これはその全5話中の第4弾です。

 第1弾は、小学生時代は帰宅後すぐにランドセルを家の玄関に置いて野球をしていた僕が,サッカーやJリーグとどのようにして出会ったか?また、当時のJリーグの衝撃と、関西唯一のクラブとしてのガンバ大阪という部分にフォーカスした内容になっています。

 第2弾は、ヴェルディ川崎と三浦知良に魅了されながら、1993年6月5日の初めてのJリーグ生観戦以降、ガンバ大阪ファンになった小学4年生だった僕が、アメリカW杯やガンバの試合を観てから本格的にサッカーをプレーするまで、という内容になっています。

 第3段は、実際に中学になってから初めて本格的にサッカーをするようになって以降、どうガンバにインスパイアされたか?稲本潤一との対戦も含めて競技者としての事について触れたいと思います。

 そして今回は僕の中学校・高校でのサッカー部としての活動とその期間に当たる1996年~2000年ぐらいまでを取りあげてガンバとも関連させて綴って行きます。

“浪速の黒豹”エムボマの衝撃で大躍進
   宇佐美のアイドル=クルプ二&ガンバのCB=バブンスキー

 中学校のサッカー部から本格的にプレーし始めた僕は、トレセンなどで高校年代のチームとも対戦し、半年後には高校生Jリーガーとして数々のJリーグ最年少記録を樹立していったガンバ大阪の下部組織出身のMF稲本潤一とも対戦したりしていました。

 そして、その稲本さんが公式戦デビューした1997年、ガンバにやってきたのはカメルーン代表FWパトリック・エムボマ。前所属クラブはあのパリ・サンジェルマン。バロンドールも受賞したリベリア代表FWジョージ・ウェアがACミランに移籍し、その穴を埋められず、Jリーグへやって来たというのが当時のエムボマ。

 そのパリの控えFWはJリーグ開幕戦で衝撃の“180度回転リフティングシュート”を、日本代表GK小島伸幸の守るゴールマウスに決め、その瞬間をまだ芝生席だった万博ゴール裏で体験していた中学2年生の僕は当然ながら彼に夢中になった。

 “浪速の黒豹”と呼ばれた彼は人間離れした身体能力と爆発的な瞬発力によるスピードを武器にした個人技で、数々のゴールやアシストを記録。28試合出場で25ゴールを挙げてクラブ史上初のJリーグ得点王となり、彼の存在だけでJリーグ開幕からの4年間は中位にも入れなかったガンバが、97年の第2ステージでは優勝を争いに加わり、最終的には2位に入るという大躍進。

 確かに完全に彼に頼ったリアクションサッカーだったものの、その中で高校生の稲本さんが定位置を確保したり、稲本さんの先輩に当たる僕的には“本当のミスターガンバ”と言えるDF宮本恒靖さんも徐々に出場機会を積み、FWでは“ミスターガンバ”らしいFW松波正信さんも13ゴールを記録していました。

 また、エムボマ以外の外国籍選手として、クロアチア代表MFネボイシャ・”クルプ二”コヴィッチのアシスト能力の高さにも惹かれ、彼は当時の宇佐美貴史(現ガンバFW)のアイドルにもなっていた模様。

 そして、僕の中で重要な存在として大好きだった選手が、マケドニア代表の主将DFボバン・バブンスキー。“ガンバのセンターバック”という定義や系譜という部分に最も当てはまる選手としてはシジレクイ(現コーチ)、宮本恒靖、山口智(現・ジェフ千葉→京都サンガ)が挙げられるのですが、そのモデルとなっていたのはバブンスキーだったのではないか?と今でもよく思い出します。3バックのセンターと4バックのボランチに入っていた彼は、その起用法が宮本ツネさんとも被りますから、ツネさんには大きな影響力があったと思います。ボバンにはスピードもありましたが。
 そんなボバンの2人の息子は、レアル・マドリーとバルセロナの下部組織に在籍してるらしく話題になった事もありました。彼自身もマケドニア代表監督など現役引退後もサッカー界に大きく貢献している部分などは、現役時代の知性を備えたプレースタイルから想像すれば想定できるような素晴らしいDFでした。

リアクションサッカーからの脱却
    ユース出身選手の台頭による攻撃サッカー