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サッカーとの思い出③ 〜本格的なプレー、稲本潤一との対戦

 Jリーグもオフシーズンになりましたので、少し僕のサッカーとの出会いや関わるキッカケになった事を交えながらサッカーを語らせてもらいたいと思います。
 これはその全5話の第3弾です。

 第1弾は、小学生時代は帰宅後すぐにランドセルを家の玄関に置いて野球をしていた僕が、サッカーやJリーグとどのようにして出会ったか?また、当時のJリーグの衝撃と、関西唯一のクラブとしてのガンバ大阪という部分にフォーカスした内容になっています。

 第2弾は、ヴェルディ川崎と三浦知良に魅了されながら、1993年6月5日の初めてのJリーグ生観戦以降、ガンバ大阪ファンになった小学4年生だった僕が、アメリカW杯やガンバの試合を観てから本格的にサッカーをプレーするまで、という内容になっています。

 そして、今回は実際に中学になってから初めて本格的にサッカーをするようになってからの部分など競技面での事について触れたいと思います。

初めてのサッカーは中学のサッカー部
   セレッソ大阪のサッカークリックを受ける

 都会生まれの僕が住んでいた地域には十分なグラウンドもなく、また今のように地域サッカーのクラブチームも少なく、通っていた小学校にもサッカー部はありませんでした。また、僕の両親も「サッカーをしたい」と言ってもさせてもらえないままでした。

 そんな僕が本格的にサッカーをプレーするようになったのは公立中学校のサッカー部から。小学生の先輩がすでにサッカー部に所属していたので、先輩が帰宅後に練習したり、僕は個人でサッカー部入部に備えて、早朝ランニングをするという準備をし、満を持して中学校入学と同時に入部しました。晴れて、本格的にサッカーができるようになったのです。

 しかし、入部した中学校のサッカー部はとにかく弱かった。3年上の先輩達の中にはガンバのジュニアユースにいた人もいて強かったらしいのですが、僕等が1年生で入学した時の3年生は失礼ながら・・・弱すぎた・・。それでもサッカー初心者の僕は入部当初の練習としてボールを使う練習はなく、学校の外周を走るという持久走のみ。よくある体育会系の上下関係です。当然ながらの日本的部活動の慣わし。ここでは入部前から早朝ランニングの効果もあり、「走るだけは嫌」などと練習に付いていけない新入部員が消えて行く中でも、あっさりと走り切れていました。僕にとっては初めてのサッカーチームでもあるので、サッカーが出来る喜びの前には持久走なんて苦にもなりませんでした。

 すると、新入部員も“整理”されたゴールデンウィーク明け。学校でも会社でも“最初の山”となるこの頃から1年生もボールを使った練習に入る事が出来ました。顧問の先生は20代で、当時もフットサルをやっていた“生涯現役”。まだ着任2年目でした。そんな若い顧問の先生の指導を、いやサッカーの練習に対しての知識もなかった僕はどんな練習メニューも貪欲にこなし続けました。

 そんなボールも使えるサッカーの練習に明け暮れた5月から約1カ月経った6月初頭の練習でした。ミニゲーム形式の練習をしていた時、僕は相手チームの3年生MFからボールを奪い、奪ったボールが味方の3年生MFに渡るも、それを奪うようにしてスイッチプレーでドリブルを開始。レギュラーの2年生、3年生も交わしてゴールを挙げました。それ以降、僕は対外試合でAチーム入りしたのです。そのプレーは今でも斬新に脳裏に焼き付いています。

 ここで少しチームの話をすると、3年生までで部員は35人ほど在籍。3年生が10人もいなかったので、空いたポジションを2年生が担わなければいけなかった枠があったのですが、基本的にはA=3年生、B=2年生、C=1年生(ユニフォームなし)が中心となって構成されていました。

 その中で前述のプレーにより、僕はプレーし始めて3カ月に満たない6月終わり頃には、Aチームでスーパーサブにはなっていました。Bチームでも主力FWになっていました。弱いチームだったからこそ、そこは僕等にはチャンスだったのです。結局、小学生の時から地域のクラブチームでプレーしていた経験者の1年生と僕は7月に入って3年生が引退となる最後の大会へ向けて、Aチームでも主力に近いところまでは行けました。3年生の最後の試合にも出場でき、成長期にない僕とは身長差が30cm以上ある相手DFのマークも経験する事ができました。

 その3年生の引退後、日本の部活動ではどんな競技でも恒例である、冬の“新人戦”へ向けて2年生と1年生だけで構成する新チームが出来た時には、僕は完全にエース核と言える立場にはなっていました。背番号は「14」。元オランダ代表のスーパースターFWヨハン・クライフに憧れていたガンバ大阪MF森岡茂さん(現・FC大阪監督)に憧れていた事もあり、当時はAチームのユニフォームがなく、偶然にも先輩から頂いた番号が「14」でしたが、運命的だったと思っています。

 こうして初めてサッカーをプレーした半年間は楽しい事ばかり。その中でピックアップする出来事となったのは、セレッソ大阪のサッカークリニックにサッカー部全体で参加した事です。顧問の先生がセレッソサポーターだったためでもありますが、学校の地理的にも大阪市だったため、セレッソが各学校のサッカー部に対してサッカークリックにまわったり、団体割引のチケットを販売していたのです。

 そんなサッカークリックの講師として来て下さったのが、ヤンマーで日本最高のストライカーにしてガンバ初代監督でもある釜本邦茂さんの相棒と言える存在だった故・ネルソン吉村さんとガンバの前身となる松下電器に在籍した経験もあるセレッソの元日本代表MF佐々木博和さんでした。

 もともと小学4年生でガンバサポーターに目覚めていた僕ですが、当時はJリーグのチケットがプレミアム過ぎて手に入らず。逆に当時はJFLというJ2がない時代は実質2部リーグとなっていたリーグ戦の試合で、セレッソ大阪の試合を観に行った事がよくありました。興奮のあまり前歯を折った歯抜けの名将パウロ・エミリオ監督も好きでしたし、JFL時代にJリーグのチームからオファーが殺到していた“モリシ”森島寛晃さんの噂に間違いない実力の高さも目にしました。セレッソのサッカーはブラジル流で面白かったのです。今のサッカーファンなら想像できないであろう、オランダ留学が帰国した“ボレー職人”FW西澤明訓がFWではなく、サイドMFで定位置を獲った時も観ていました。

 そんなサッカーをプレーし始めた頃はセレッソの影響もあった中で、ネルソンさんのテクニック講座を経た上で練習試合を観てもらい、実際にプレー指導していただいた事は今でも鮮明に覚えているのです。