ロベルト・バッジョの信念と苦悩

 前回の項では筆者の憧れのサッカー選手である元イタリア代表FWロベルト・バッジョを取り上げ、テレビの画面越しながらも初めて観た1994年のアメリカW杯での活躍ぶりを中心に振り返りました。

 バッジョはグループリーグでは無得点ながら、決勝トーナメントに入って3試合で5得点。イタリア代表はアリゴ・サッキ監督が提唱した時代の最先端を行くゾーンプレス戦術が全く機能していませんでした。しかし、持ち前の堅守に、バッジョの個人技を最大限に活かすというシンプルな堅守速攻で決勝へ進出。スコアレスで迎えた決勝・ブラジル戦のPK戦では5人目のキッカーとして登場するも大きく上へ外して失敗し、自ら決勝へ導きながらも「悲劇のヒーロー」は準優勝に終わりました。PKを外したとはいえ、バッジョが決めていても、ブラジルの5人目が成功していればイタリアは敗れていたのですが、イタリア国内ではバッジョへの批判は凄まじく、彼の親戚宅が放火の被害にも遭いました。

 ただ、彼が「悲劇のヒーロー」であり、タイトルに恵まれないのは名将と言われる監督たちとの対重なる衝突を繰り返したり、あくまでも自身のサッカー哲学を譲らない部分、加えて負傷の多さも含めると彼自身にもその理由、敗因はあります。

 逆に、「PKを外す事ができる者は、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」という自身の言葉にもあるように、バッジョ自身はセリエA通算205得点中の3割を越える68得点をPKで記録している名手でもあります。W杯決勝でPKを外したからというイメージだけでPKが下手なイメージを持って欲しくない。

 今回はそんなバッジョのアメリカW杯以降の活躍ぶりはもちろん、移籍や監督との確執、逆に理想の監督との出会いを通して、サッカー選手=ロベルト・バッジョのキャリアを振り返りたいと思います。

名将たちとの度重なる衝突・確執~バッジョがビッグクラブで輝けない理由

 準優勝に終わったとはいえ、バッジョ自身は5得点を記録し、「ロベルト・バッジョの大会」と言われた1994年のアメリカW杯。世界中の誰もがバッジョのプレーに感激し、特にJリーグが創設してまだ2年目だった日本では僕も含めて彼に憧れるサッカーキッズが多かったと思います。

 しかし、大会後にバッジョの神憑り的なプレーの連続で準優勝という結果を残し、2年後のEURO(欧州選手権)まで続投が決まったイタリア代表のサッキ監督は、R・バッジョが大きなテーピングを巻いて負傷している中で決勝への強行出場を志願してきた事について、「チームに不利益を招いた」と個人批判。自身の戦術であるゾーンプレスが大会を通して全く機能しなかったにも関わらず、R・バッジョの神憑り的なプレーの連続で準優勝という結果を残し、バッジョに助けられたにも関わらず、まだ27歳だったバッジョを代表から外しました。バッジョのいないEURO96のイタリア代表はグループリーグ敗退。実はバッジョはW杯には3大会連続で出場したものの、EUROには1度も出場していません。

 バッジョは卓越した個人技を持つ反面、走力や守備の意識が乏しく、チーム戦術上扱いにくい存在で、サッキを始めとする名将と呼ばれる監督たちと何度も衝突しています。短期決戦の代表チームでは特定の個人に頼るチーム作りはアリでも、1年間の長丁場であるリーグ戦では組織的なチーム作りをする上では優先順位は下がります。また、バッジョ自身の負傷も多い事から計算が出来ない事もあり、彼はキャリアを通して選手層の厚いビッグクラブで輝いた実績はないと言えます。

 ユヴェントス在籍時の1993年にUEFAカップ(現・ヨーロッパリーグ)で優勝。自身も公式戦37得点を記録し、バロンドール(当時は欧州最優秀選手)とFIFA最優秀選手をダブル受賞していますが、当時のユヴェントス自体が低迷期にあったため、バッジョ中心のチーム作りは必然でした。