2008年4月29日とは何の日かご存知だろうか?その後のJリーグの歴史や日本サッカー史にとって重要な事が決断された日だったのだ。

 2008年4月29日とは、コアなサンフレッチェ広島サポーターの間で『広島サッカーの誕生日』と言われている。当時のミハイロ・ペトロヴィッチ監督が浦和レッズへ“移籍”してからも定着させている、サンフレッチェ独自の可変型フォーメーション<3-4-2-1>がメインシステムとして採用された日なのだ。

 現在でこそサッカーファンには「ぺトロヴィッチ監督やサンフレッチェと言えば<3-4-2-1>」と決まり文句のように言われているものの、この独自の“広島スタイル”はペトロヴィッチがサンフレッチェの監督に就任して足掛け3シーズン目で出来上がったモノだったのだ。それは偶然と必然が交じり合った末の化学反応でもあった。

 今回は、その『広島スタイル誕生』を紐解いて行く。

前代未聞の降格監督続投に始まり、偶然と必然により誕生した”広島スタイル”

 ぺトロヴィッチ監督が就任以降に躍進した2006年シーズンも、タイトルを期待されて上々のスタートを切った2007年シーズンの序盤戦にも共通していた課題があった。2006年シーズンのサンフレッチェはリーグ戦全34試合で50ゴールを挙げたが、その7割近くを2トップの佐藤(18ゴール)とウェズレイ(16ゴール)が記録していた。逆にトップ下に入る柏木や森崎浩司の得点が少な過ぎた。そして、その攻撃のほとんどが日本代表として定着していた右WB駒野のクロスから生まれていた。完全にフィニッシュのパターンが偏っていたのだ。

 それを他クラブに研究されて対策を打たれた2007年シーズンの中盤戦以降、サンフレッチェは連敗を繰り返す負のサイクルに陥った。そして、相手チームはボールを奪ってからの突破口として、右ストッパーにコンバートされたMF森崎和幸を狙い続けた。前年には最終ラインからのゲームメイクで躍進の原動力になっていた森崎和幸だったが、彼の守備面での弱点を突かれた。そして、まさかの2度目のJ2降格を喫してしまう。それも自動昇格ではなく、京都パープルサンガとのホーム&アウェイによる入れ替え戦で敗れての降格だった。

 しかし、J2降格が決まった直後にペトロヴィッチ監督の続投が狂気に満ちたゴール裏サポーターの前で、当時の久保允誉社長の口から発表された。就任から1年半を経過した監督のJ2降格は解任に相当する結果だ。「前代未聞の降格監督の続投宣言」と言われたが、冷静に考えて見れば、本当に解任するならばシーズン中にそのヤマは何度かあったはずだ。クラブは降格しても監督の続投を随分と前から決めていたのではないか?と、今思えば感じる。ただ、監督本人は辞任する気だった。記者会見かロッカールームでの選手への挨拶の際に「辞める」と言おうとしていた。その僅かに先に久保社長自らが走って駆けつけて続投要請をしたから、現在のサンフレッチェがある。浦和レッズもある。多くのJクラブが世界的には主流ではない3バックをメインとするシステムや可変型フォーメーションのJリーグ戦術史があるのだ。

 そんなペトロヴィッチ監督が続投して迎えた2008年のJ2リーグ。序盤から結果はまずまずながら、試合内容に選手も監督も納得が行かない試合が続いていた。結果よりも内容に定評を得ていたからこその「降格監督の続投」であったはずなのに、だ。そして、2008年4月29日のJ2リーグ第10節、アウェイでの徳島ヴォルティス戦がやって来た。直近の第8節・ヴァンフォーレ甲府戦で敗れ、第9節・ロアッソ熊本戦では辛勝したものの、「こんなサッカーをしていたら、いずれ勝てなくなる」という森崎和幸の試合後のコメントが出ていた。

 そんな状況で迎えた徳島戦は前節から中2日で開催され、全く準備時間がなかった。試合内容に不満を感じていたのは監督も選手も同じだった。そこでペトロヴィッチ監督は森崎和幸をボランチに配置し、青山敏弘と初めてボランチコンビを組ませた。そして、最前線はそれまでの2トップではなく、佐藤寿人1人に任せ、森崎浩司と高萩洋次郎にシャドーを任せた。今や定番の“1トップ2シャドー”だ。2006年にレンタル移籍先の愛媛FCで印象的な活躍を続けていた高萩は、ぺトロヴィッチ監督がかねてから起用したがっていた天才肌のMFで、高萩はこのシーズン14得点を挙げてブレイクする。

 また、最終ライン中央で起用されていたイリヤン・ストヤノフはジェフ時代から「後方の攻撃の起点」として相手チームから警戒されていた。そのため、「相手の持ち味を消す戦術ではJ1以上」と言えるJ2では、このセンターバックが相手FWにマークされ、彼からの前線へのフィードが制限されていた。そこでストヤノフはボランチになった森崎和幸と相談し、「ポゼッション時は後ろに下りて来て組み立てを助けて欲しい」と依頼した。これが攻撃時はボランチが下りて、ストッパーがSB化し、中盤は青山以外は前線に張って縦パスを5人で待ち構えてパスコースを作る<4-1-5>。守備時はエディ・トムソン時代のような両WBが最終ラインまで下がってスペースを消し、シャドーもサイドMFとしてプレスバックしてくる<5-4-1>。この2つのシステムを兼ね備える可変型フォーメーション<3-4-2-1>による“広島スタイル”の誕生だった。
 

 過密日程下と不調時のカンフル剤的要素として用いられた“偶然性”はあるものの、ストヤノフと森崎和幸による対話から生まれた可変型フォーメーションの発展には“必然性”を十二分に感じる。また、実はペトロヴィッチ監督がサンフレッチェと契約する際、オーストリアのグラーツのレストランで初対面ながら織田秀和強化部長(現・取締役社長)に紙ナプキンに描いた自身の理想のサッカーの形こそが、実はコレだったのだ。