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「王者」サンフレッチェ広島の歴史〜『紫熊の冬眠』時代

 その影響は諸に結果にも影響し、リーグ成績は二桁順位が定位置となった。J2への降格制度が出来たのは1998年以降だが、完全に「万年残留争いのチーム」の成績が続いていた。(上記参照)しかし、そんな暗黒時代にも希望はあった。

「サンフレッチェに在籍していた歴代の選手の中で規格外の能力を持つ選手は誰か?」

 この質問に対して、外国籍選手も対象に入る中で最も多い解答は、日本代表にも定着したFW久保竜彦になるだろう。ただし、久保が所属していた時代はチームがずっと低迷し続けていた。だからこそ規格外のポテンシャルを最大限に発揮する事が出来たのかもしれない。

 そんな時代、前任のオランダ人指揮官ビム・ヤンセンによる何処かで聞き覚えのある「自由」と言う名の放任サッカーに合わず、「ピッチ上の監督」と言えるハシェックや風間が退団してしまった。1997年にやってきたスコットランド人のエディ・トムソン監督は現実的な戦い方を選択するしかなかった。時より両ウイングバックが最終ラインまで下がってしまう5バックではなく、完全にスタートから5バックを敷く守備重視の<5-4-1>システムが当時のサンフレッチェの基本布陣となった。攻撃のメインパターンはカウンターとセットプレーが合言葉だった。

 しかし、後方に重心を置いた事で、前線には自然と広大なスペースが拡がっていた。そして、それは日本人離れした異能のストライカーであるFW久保竜彦の能力を最大限に活かす事に繋がった。久保の自ら局面を打開して豪快なフィニッシュまでの全てを自己完結できる稀有なプレースタイルは、苦しいチーム状況が彼に頼った結果でもあるが、彼もまたチームへ効果的に貢献するには最適だったのだ。

 この時期からクラブは下部組織の整備にも取り組み始めた。1998年に現在のクラブの拠点である吉田サッカー公園が完成して本格的な体制が始まった。この吉田サッカー公園(吉田町)は広島市からアクセスするには1時間半以上はかかる場所にあるものの、サンフレッチェにはすでに1994年の時点でJリーグのクラブとしては初めてのユース寮が出来ていた。近年になって多くのJクラブも採用したユースの全寮制は早くも当時のサンフレッチェには取り入れられていたのだ。

 そうなるとスカウティングの対象は当時の他のJクラブが重視していた高校生ではなく、中学生や小学生にする必要性が生じる。育成の成果が出るのは時間がかかるのが当たり前とはいえ、それでも2000年以降にはその成果が如実に現れた。下部組織出身のMF森崎和幸とDF駒野友一(現・FC東京)が10代でトップチームの主力選手となったのだ。そうした目に見えた成果が出始めると、県外出身のMF柏木陽介(現・浦和レッズ)やMF高萩洋次郎(現・FCソウル)といった逸材を確保する事にも繋がった。また、このサンフレッチェの下部組織の充実は、日本代表DF森重真人(彼は広島ジュニアユース出身)を筆頭に数多くのJリーガーを輩出する広島皆実高校の躍進を始め、広島県内の高校サッカー界にも刺激を与えたのだった。

 当時のサンフレッチェは暗黒時代という冬の季節を迎えていたが、冬眠する前に温かい春を迎えるための策は準備していたのだ。その“冬眠”に相当する現実的なサッカーで結果を残して耐えていたのがトムソン監督による1997~2000年までの4シーズンだったと言って良いはずだ。

 次回は現在の広島のサッカーに至る流れについて触れてたいと思います。しばしお待ちください。